Complete text -- "明日で阪神・淡路大震災から10年。"

16 January

明日で阪神・淡路大震災から10年。

 阪神・淡路大震災から、明日で10年。
 もう、そんなに経ってしまいますか・・・。

 当時、私は愛媛県(松山市内)で気ままな学生生活を送っていました。
 愛媛県松山市の震度は3〜4程度だったと思いますが、生まれてから当時まで、地震の少ない地域(夜に地震があったら、翌朝の友人との話題は「地震」という土地柄)に住んでいたため、たかが震度3〜4でも、そんな揺れを体験した回数は、片手に足りていたと思います。
 まだ夜も明けぬ薄闇の中、安物のパイプベッドがギシギシきしみ、本棚などの家具が壁に当ってゴンゴンと音を立てています。その揺れで起こされた私は、ベッドの枠につかまってぼんやりしていただけです。それが地震だと気付いたのは、揺れがおさまったあとでした。
 私は震度3〜4でこの有様でした。神戸の皆様が震度7の揺れを体験された時の衝撃は、どれほどだったことか・・・。

 そして、私の郷里福井や松山市は、土地柄、京阪神地区との結びつきが強い地域でもあり、神戸に住んでいる親戚、神戸出身の友人もいました。
 私の身近な所では、大叔父一家、サークル仲間、ゼミ仲間とゼミの講師の実家がそれぞれ被災しました。
 特に、ゼミ仲間の実家は被害が大きく、家屋がほぼ全壊していたそうです。彼はその後一年間、休学して実家の手伝いをすることになりました。
 その休学の間にもらった電話で、彼が一言、こう言いました。

 「俺、子供の頃の写真も卒業アルバムも、全部なくなってしもたんやわ」

 他にも色々な話をしたはずなのに思い出せませんが、この一言だけは、いまだに私の心に焼きついています。

 そのゼミ仲間とも、今では遠方のために疎遠になってしまい、私もあの災害のことは、世間と同様にほぼ忘れかけていました。
 しかし、ニュースで「阪神・淡路大震災から10年」という言葉を聞いて、ふと、当時を思い出しましたので、今日のネタにしてみました。

 私がその後、初めて神戸の町を訪れたのは、数ヵ月後、松山〜神戸間のフェリーの運航が開始された時でした。
 六甲アイランドのフェリー乗場から六甲ライナーに続く道路の歩道は、液状化のためか、継ぎはぎだらけでボコボコだったことを覚えています。
 また、埋め立て地の未開発地には、仮設住宅らしい、白いプレハブがたくさん並んでいたことも・・・。

 あの震災に遭われた皆様の中には、未だ、不便な生活を強いられている皆様がいらっしゃることと思います。
 まだ傷の癒えない被災者の皆様、そして昨年発生の新潟県中部地震の被災者の皆様も、一日も早く、平穏な暮らしに戻れますように。

 さて、話は変わって、自分の周囲を顧みてみます。

 現在、私は東京在住です。
 関東地方は、よく言われていることですが、とてもよく地震が起きる土地です。
 以前は、関東出身の皆様にそんな話を聞いてもピンと来ませんでしたが、実際に生活すると、その言葉の意味が痛感できました。

 とにかく、東京に出てきた当初は、月に一回ほどは震度1程度の有感地震が起きていることに衝撃を受けました。
 それまで、地震が少ない地域に住んでいたため、地震があるたびに「おい!昨日地震が!」と大騒ぎしていた私は、生粋の関東人によく笑われていました。

 しかし、人間という生物はある意味で恐ろしいものです。
 当初、絶対に異常だと思っていたこんな物にも慣れてきてしまい、以前はバリバリに強かった私の地震感度は、今では中の下くらいです(会社にいて、皆が「揺れてる!」と騒いでいても「?」な時がある・・・)。
 しかも、東海沖のプレートの歪みがいまだに蓄積中なのと、東京都下にも活断層が複数走っていることを考えると、関東には大地震がいつ来てもおかしくない状態であることは間違いありません。
 もし、そのエネルギーが阪神・淡路や新潟県中越の震災と同じレベルになったら、被害も同じくらい・・・というより、同じ震度でドカンと来たら、確実にそれを上回る被害になる気がします・・・。

 とにかく、私の住んでいるボロアパートが最初の揺れに耐えられるかどうか、が一番心配ではあります。
 が、幸いにして部屋は三階建ての二階なので、潰れるなら一階だ・・・と言う希望的観測を持っています(1階の住民が見たら、殴られそうだ ^^;)ので、それをデフォルトに、災害時の行動をいつも考えています。

 幸い、私は低山ハイクを趣味にしていますので、非常時には登山装備がそのまま非常用品として使えます。恐らく、今の手元の装備でも、一人なら2〜3日は持ちこたえられると思います。
 大地震の被災者の体験手記を見ていると、行政が機能を回復し、食糧配給などが開始されるのは大体、24〜72時間後のようです。
 それから後は避難所などに入れば、何とかなりそうな気がしますので、それまでを手元の非常装備で乗り切ればよい、という感じでしょうか。
 これまた幸いに、避難所での、見知らぬ人との雑魚寝も、山小屋で慣れてますし・・・。
 (ただし、ある被災者の方が言っておられた、「行政の職員もやはり被災者なのだから、全てを世話しろとは言えないよ」という一言は、その通りだと私は思っています。避難所に入っても、自分でできることは自分がやらないと・・・)

 しかし、それ以上の被害がでていた場合や、近所から火が出た場合、私は迷わずこの場所を捨てて、安全な場所まで(場合によっては東京脱出も考えて)逃げることを考えます。
 私の住んでいる場所は、すみっこの方とはいえ住宅密集地の世田谷区。アパートの階段から周りを見れば、はるか彼方まで家の屋根しか見えませんし、Web上で航空写真を見ても、恐ろしいほど住宅がひしめいています。
 こんな場所で大地震が起き、ライフラインが寸断された状態で倒壊した家屋から火の手が上がって、そこに風でも吹きつけようものなら・・・。
 阪神・淡路大震災における東灘区の火災被害を覚えていらっしゃる皆様も多いと思いますが、それを上回る被害になっても、私は不思議ではないと思っています。

 とにかく、「東京脱出」は私のような「転蓬」の最終手段ですが、東京の超過密な住宅事情を考えると、それくらいの覚悟を持っていないと助からないような気がします。
21:10:00 | yo-ta | | TrackBacks
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