Complete text -- "「曹操残夢 −魏の曹一族−」の御紹介"

11 August

「曹操残夢 −魏の曹一族−」の御紹介

 昨日までのムシネタのため、画像を整理していて気がつきましたが、今年はサカハチチョウをまだ見ていないです!
 連中、本当に奥多摩湖の南岸遊歩道で姿を見なくなりました(春型に続き、夏型もいなかった)。

 あいつらがいないと、「手乗り」ネタができないんだけどなあ・・・(爆)。

 では、本題です。
 また例によって、「三国志」に被る話題ですが(^^;)、こんな本を見つけました。

曹操残夢
曹操残夢 −魏の曹一族−
(陳舜臣著)

 陳先生の名著、「曹操 −魏の曹一族−(上巻下巻)」の続編です。
 残夢、とタイトルにあるように、今回の話は曹操死後の曹一族と魏の衰亡の物語で、陳先生独自の中国史観と確かな知識の裏付けから描かれる、重厚な人間ドラマです。

 この、「魏の曹一族」シリーズは、三国志を題材にした物語では通常、悪役扱いされることが多い魏の曹一族について、史書の記述解釈をもとに構想を練った人間ドラマとして描かれている作品です。
 単なる国取物語や英雄譚に終わらず、時代背景、文化、伝統、芸能から社会情勢(三国志の物語ではあまり描かれない、この時代の中華外諸国や西域との交流、宗教観に至るまで)をバックボーンにしています。
 羅貫中以来、千年間語り継がれてきた、「蜀=善、魏=悪、呉=道化」の物語に慣れてからこの物語を読むと、「今まで読んでいた三国志の世界は何て薄っぺらだったんだ!」と思うくらい、物語世界の厚さが違い、人の「血」が通ったように感じられる描写の数々に驚かされると思います。

 なお、この「曹操残夢」は、前作になる「曹操」の続編であるため、人物関係やエピソードのいくつかは、前作を読んでいないと「???」になるかもしれません。
 あと、どうしても「三国志演義」の粗筋程度の理解がないと、話の展開が唐突に感じる所があるかもしれません。
 特に、呉と蜀の扱いは軽いため、あれ?と思うほどあっという間に話が進んでしまいます(その分、魏では同じ話が違う人の視点から何度も繰り返されたりもする)。

 まあしかし、私はこの物語については、まだ曹丕、曹植兄弟の時代から曹叡に代が変わったところまでしか読んでいませんので、これ以上、全体についてどうこう言うのは避けようと思います。
 ちなみに、私がこれまでに読んだ曹丕、曹植兄弟の時代の部分だけでも、物語全体の半分くらいのページが割かれています。この時代の中心にいて、政治にも文化にも時代の流れにも大きな足跡を残した上に、後世の多くの史家・文筆家を魅了した兄弟ですから、物語として描き甲斐があったのでしょう。

 そして、日本でよく読まれている「蜀=善、魏=悪、呉=道化」の三国志物語に慣れた視点からは、この物語の曹丕、曹植兄弟は、ちょっと意外な描き方をされていると思います。
 どんな感じであるかは、前作や本編を読んでいない皆様のために伏せておくとして、私はこの描写をもとに、曹丕の死までを読んだ時、曹植の絶唱とも言うべき「吁嗟篇」をもう一度、読み返したくなりました・・・。

 ・・・しかし、同腹兄弟の中では、やはり曹彰(曹丕と曹植の間の兄弟で、武芸には秀でていたが、文才は芳しくなかった)の扱いは軽いのね(^^;)。
 さすが、父親曹操に、「弓や槍だけでなく、他の才も身に着けなければ王たるに足りぬ」と言われ、しれっと「騎(馬術)があります」と言い放って呆れられた男(爆)。

 曹操が言ったのは、「文書に親しみ、教養を高めよ」って意味だったんだぞ・・・。
 同じように、詭弁を弄するのが得意だった孔融という人物は、(聖人孔子の子孫として、多くの人から慕われていても)「賊徒」として処刑されているんだぞ・・・。
 君主の息子でよかったなあ、子文(曹彰の字)。そうじゃなかったら・・・(--;)。

 さて、私は多くの三国志ファンに「ぬわんだとぉ〜!(怒)」と言われますが(^^;)、あの時代はやはり魏が中心の時代だったと考えています。

 三国から晋に引き継がれたもののほとんどは、魏の制度、文化、芸術であり、それはその後の時代を経て、現在にまで至っています。
 この時代を代表する勢力は、どう贔屓目に考えても魏であり、蜀と呉は、一地域の軍閥国家にすぎなかった、と私は思います(諸葛孔明の饅頭の話や諸葛菜などは、後世の創作の線が濃厚だそうですし・・・)。

 なお、物語「三国志演義」で蜀が正統として描かれたのは、その当時の時代背景があると言われています。
 物語が成立したのは、三国時代から時代を下って約千年後。
 中国は南北朝時代で、北半分を北方の騎馬民族、南方を漢民族が支配する版図となっていました。
 漢民族から見たら、長安、洛陽などの民族の文化的中心地を奪還することが切望されていた時代であり、その考え方に属する思想や学問(朱子学)が発達し、それが文化に大きな影響を与えていました。

 自然、過去の歴史も朱子学に基づき、南方を正統、北方を異端とみなすようになり、三国時代も「魏=異端、蜀=正統」とみなされたようです(同じ南方勢力でも呉は北伐に熱心でなかったため、道化役を押し付けられたらしい・・・)。
 また、この時代に正史三国志(陳寿編纂の歴史記録の方であり、日本で読まれている物語とは違う)を見た歴史家達は、「北方の魏を正統とするなど、けしからん書だ!」という朱子学的解釈のもと、正史三国志や陳寿を貶める書を次々と発表しました。
 これが現在まで続く、「三国志はいい加減」&「陳寿虚偽記録」説の発端ですが・・・はっきり言って、「いいがかり」をつけているだけではないかね>朱子学者達よ。

 まあ、こうなった遠因には、陳寿は派閥嫌いで一匹狼だったために政敵が多く、そういう人たちから「あいつはけしからん奴だ」という手記を多く残されていたこともあるんですけどね・・・。
 (しかし、晋の武将で呉を滅亡させて天下統一の立役者となった杜預は、陳寿の歴史官としての才能を高く評価している。ちなみに、杜預は春秋左氏伝などの歴史書を愛読する教養人であり、唐代の詩人にして詩聖として現在でも名高い「杜甫」の祖先だったりする)

 あ、それから、よく三国志マニアが集まると、「三国時代に行けるとしたら、何をする?」みたいな話をしていますが・・・私はあの時代に行きたいとは思いません(^^;)。

 あの時代は、戦乱に次ぐ戦乱と、食糧難に次ぐ食糧難のため、全国土人口の7割が死んだという悲惨な時代です(数字に誤りはありません。後漢末期の人口の7割もの人が死に、晋の統一時には3割しか残っていませんでした)。

 英雄達の物語の裏に隠れていますが、史実を紐解くと、軍隊の食事に戦死者の肉が出されることも良くあったことですし、戦争をはじめた理由は敵国民を殺してその肉を食べるためだったことも良くあったのが、この時代の現実です(ゆえに、救済を求める人々の心が太平道や五斗米道に傾倒したり、西域経由で渡来したばかりの仏教が急速に広まっていったりしたのだそうだ)。

 こんな時代に行ったら、何かをする前に、食われて終わるでしょう・・・。
22:36:54 | yo-ta | | TrackBacks
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